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ヘリーン・ジャーモル・内田ヘリーン・ジャーモル・内田は、日本の皆様がそれぞれの経歴や能力に応じて、積極的かつ社会的な方法で英語を使った交流ができるようにお力添えする事が自分の使命と考えています。 ヘリーン・内田は25年もの英語教育の経験を持つ、優れた教育者であり、日本人の生徒が英語を使って交流し、また自分の伝えたい事を十分に伝えられるという自信とその技術を身に付けさせてきました。『経験による英語』に焦点をあてることで、人は英語で文化の違いを越えたコミュニケーションをはかる力を上達させ、英語の専門的な分野においてでさえそのような交流が出来るようになるとヘリーン・内田は信じております。英会話学校創立当初の生徒たちは現在マイクロソフトやIBM等の企業で英語を使う仕事についていますし、外資系企業の日本支社長について二ヶ国語の話せる重役補佐として活躍中の方もいらっしゃいます。その他にも海外に住んで仕事を持っていたり、日本に住んでいてもヘリーン・内田に習った英語の基礎力のお陰で豊かな生活をしていると連絡を下さったりする方もいらっしゃいます。 経歴
ニューヨーク州ベイショアにて、2人姉妹の長女として生まれ、両親が共働きで子ども達の面倒が見られなかった為、小学校入学前は養護施設で過ごしました。そこでは他の子ども達のリーダーとなりその子ども達の事は全て彼女が決めていた事を思い起こすと、現在の彼女のリーダーシップ力が育まれたのはこの時期だとヘリーン・内田は確信しております。公立の学校時代を通してこの能力は一層磨きがかかり、学級委員長、チアリーダー部のキャプテン、女子学生社交クラブの委員長、聖歌隊のリーダー等を勤め、高校においては「最も尊敬する女性の先輩」に選ばれました。 ヘリーン・内田は両親から良い点を一つずつ受け継いでおり、決して泣き言を言わない母親からは十分なスタミナと、父親からは美的センスを伴ったクラシック音楽への情熱を受け継いでおります。 大学では勉学に没頭し、加えて詩を書いたり、ギターをひいて歌を歌ったりして過ごしました。フロリダのタンパ大学卒業後、修士号を取得する為C.W.Post大学院に入り、そのかたわら、ニューヨークのブレントウッド東中学校で英語を教えました。彼女にとってそのブレントウッドの生徒達を教えたことはどの大学の教育講座よりもはるかに役立つ事でした。(彼らには一生感謝しています。)加えて、そこにはジョージ・ピットマン氏、エド・マーフィー氏、トム・マルセロ氏といった献身的な管理課のスタッフがいて常にヘリーン・内田に対し励ましや刺激を与えてくれサポートしてくれました。 ブレントウッド東中学校在任中、同僚のゲイル・インゼリロと共に長文読解の補習プログラムを作成したり、ストーニーブルック大学からのインターン生に英語のトレーニングをしたりして、他の英語の教師達をよく驚かせました。 その後就職カウンセラーの仕事につくためにサンフランシスコに移り、その仕事は人とコミュニケーションをとったり、仕事のコーディネートをしたり、またカウンセリングに来る人を励ましたりと、かなりの部分が教職と共通していることに気付きました。そしてハワイに休暇で滞在している時に柔道と出会い、それが彼女の日本への足がかりとなったのです。 来日すると、彼女は東京の早稲田大学で柔道部に入部しました。部員の中で、彼女は唯一の女性、唯一の白帯、唯一の外国人でした。柔道部顧問の大沢先生はそこで内田壮平に柔道の基礎を彼女に教えるように指示しました。そこで「恋はするなよ」の一言を添えて。 稽古の初日、内田壮平は「柔道は一人では出来ません。必ず相手が必要です。」と言いました。そして柔道家は相手を尊敬しなくてはならないとも言いました。本質的に相手がいれば柔道は出来るのです。もし相手が強ければ、その相手から学ぶ事が出来ますし、もし相手が弱ければその時には強い方が弱い方を教えればいいのです。これは彼女にとって思いもよらない考え方でした。というのも彼女はアメリカ人として常に独立独行型で来たからです。柔道とのかかわり(彼女は後に黒帯に昇段しました)や、未来の結婚、そして日本における英語教育の観点から考えると、この考え方は彼女の人生を変えました。
1978年3月12日早稲田大学柔道場において、彼女は柔道の師であり、人生の長い伴侶となる内田壮平と結婚しました。彼女は道場こそが真の仲人に相応しいと信じ結婚式の場に道場を選んだのです。式には100名以上の方が参列しました。 結婚2〜3ヵ月後には壮平がギリシャで1年間柔道を教えることになり、内田家はアテネに旅立ちました。息子の壮志は神々の母という意味の名を持つイラ病院で生まれました。壮平の父の訃報をうけ一家は日本に戻り、壮平とヘリーン、そして6ヶ月の壮志の三人は友人も蓄えもそして仕事の当てもなく、福岡での生活を始めたのでした。 壮平は自宅と棟続きの柔道場で月・水・金と柔道を教え、ヘリーンは稽古のない火曜日と木曜日に道場の畳の上で3人の子供達に英語を教え始めました。その評判は口コミによって瞬く間に伝わり、生徒数が増えすぎて週2回のクラスではまかないきれないほどになりました。 内田家はここで大きな一歩を踏み出し、1982年にリトル・アメリカを開校しました。 他の英語の先生方へのサポートが必要とのニーズに応え、英語教材のメールオーダー・サービスとしては日本初のリトル・アメリカ・メールオーダー・サービスを1986年に立ち上げました。LATEM(リトル・アメリカ英語教授法)は、学校の教授法研究とメールオーダー・サービスの教材を合わせて生まれたもので1994年に設立されました。1995年に初めて開催した福岡LATEMセミナーには100名以上もの先生方がご参加になりました。ヘリーン・内田のそれぞれの対象に合わせて作成された英語教授プログラムは、先生方に刺激を与え、又その独特で効果的な結果が出る事によって全国に知られる事になったのです。 ヘリーン・内田は日本の英語指導において四つの信念を持っています。まず、第一に言語習得というものは経験を通して得られるという事、二つ目は公立、私立を問わず学校で教えられる英語は心が通っていないところがあるという事、三つ目は、生徒達は皆、教師から尊重されるべきだという事、そして最後に教師は生徒の能力を決して侮ってはいけないという事です。指導者、先生方、保護者の皆様、そして生徒達に、彼女が微力ではありますがサポートをさせて頂くことによって、真の効果的な英語教育の引き金となることができれば、そして日本の皆様がその教授法をしっかりと身に付けられ、その結果世界中の隣人達と意義のある交流をもって十分なコミュニケーションが取れるようになっていただける事をヘリーン・内田は心から願ってやみません。 インタビューヘリーン・ジャーモル・内田のインタビューは、eltnew.comでご覧になれます。
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